どうしても今日中にという届け物があって、小雨が降っていたが、PS250で家を出た。片道20分ほどで到着できる場所だから、雨が小降なタイミングを選んだつもりだった。どうしてこういう時に限って、赤信号ばかり続くのだろうと多少イライラしていた。到着したことを知らせるために携帯で電話したが、相手は出ない。しかたなく相手の郵便受けに届け物を入れて、帰ることにした。行く前に電話をしたにもかかわらず電話に出ないとは何事だ、とムカッと来たことも確かだ。帰り道で雨が強くなった。日曜日のせいかクルマの動きが鈍い。またまた赤信号に引っかかりぱなしだ。道の真ん中に無数のマンホールの蓋がぎらぎら光り、コケろ、コケろとばかりに走る邪魔をしている。こんなことにも、イラついていたいたことも否めない。家に帰り着いて、雨は強い霧雨に変わっていた。少しほっとする。バイクをザッと拭き、車庫に収めて、一刻も早くカバーをかけたかった。拭いた後は急がないと、カバーの中で濡れた状態になる。それで晴れてしまえば、カバーの中でバイクは蒸される状態となる。あまり嬉しくない。バイクの隅々まで水分が行き渡ってしまう結果だ。できる限り早くカバーをかけてしまいたい。そんな時だ。人の気配を感じた。玄関の前でこの作業をしている私をじっと見ている男がいる。犬を連れ、キャップを被った中年男だ。必至でバイクの水気を落としている、まああまりかっこよくはない姿を、仁王立ちのまま眺めているのだ。紛れもなく私を凝視しているのだ。嫌な感じだ。そうやって見ていること自体、失礼だ。しかし、早く作業を済ませてしまえば、この嫌な状態も終わることなので、テキパキと作業に集中したその時だ。
「いいバイクだね」と声がした。嫌な感じが的中したのだ。普通見ず知らずの人に最初に声をかける時は、
「こんにちわ。いま少しいいですか」などと相手の都合を聞くのが常識だ。それがいきなり「いいバイクだね」である。最初のこのひと言で、実はカチンときた。そしていままでの様々な嫌な記憶が蘇った。

高速道路のサービスエリアには、こういう不躾なオヤジがよく出現する。サービスエリアで飼っているのか、湧いて来るのか、バイクの駐輪場で休んでいると近づいてきて必ずこう言う。
「それ、ナナハン?」。少し大きめのバイクを見ると必ずナナハンかと聞く。それだけで、日常的にはバイクにはまったく関心がなく、その場限りの好奇心だけで質問していることが分かる。こうしたナナハンオヤジを相手にしているととんでもないことになる。
「違うよ」と冷たく答えると、
「何しーしーあんだよ?」と聞き返される。
「1300だよ」。
「そりゃーないよ。そんなでかいバイクあるわけねえ」。信用しないなら、聞くな。 そして、そのオヤジは、こちらがなんと答えようとも、次に発する言葉は決まっている。
「俺もさあ、若い頃はバイクに乗っていたんだよ」。そして、古いバイクの話ばかりをする。それも手垢のついたバイクの本人だけの自慢話である。そんな話、うんざりなのである。中には50ccに乗っていたことを自慢するオヤジもいる。
「いやあ、死にそうには何度もなったよ。でもさ、かみさんに反対されて止めたんだ」。奥さんに反対されたぐらいで止めるな。それは本当は自分が、自分の意思で降りたのだろう。バイクに乗ることの価値より、他の別のものを選んだのだろう。そんなことはこっちの知ったことではない。聞きたくもない。しかし、さらに輪をかけてしゃべりだす。
「バイクは危険だよなあ。転んだらあの世ゆきだもんなあ。気をつけたほうがいいよ」。よけいなお世話だ。そんなことくらい、あんたの何百倍も自覚していて、それでも好きだから細心の注意を払い、おまけに命がけで乗っているんだ。たのむから、もう向こうに行ってくれ。目の前から消えてくれ。しかしそれても語り続ける。こちらは無視するしかない。
こうした言動が、どうして失礼であり、不躾であり、無礼だと分からないのだろうか。人が大切にしているもの、大切にしている時間、大切にしている気持ちを、平気で踏みにじるのだ。私だってバイクが好きだといえ、いつもいつもバイクに乗っているわけではない。たまの休日に、前々から予定を立てて、やっと大好きなバイクに乗っているのだ。それは、人生の中で最も幸せな時間を味あおうと、いろいろなものを犠牲にしてやっと手に入れた時間なのだ。何の関係もないオヤジの自慢話を聞きたくて、バイクに乗って走ってきたのではない。本当にバイクが好きで、どうしても聞きたいことや、話したいことがあるなら喜んで聞くし、喜んで話す。その場限りの好奇心で、話しかけ、自慢話をしてもらいたくはないのだ。大切なものを土足で踏みにじらないで欲しいのだ。

今回家の前に犬を連れて現れたオヤジには、瞬間的にこのナナハンオヤジの匂いを感じた。いきなり、突然
「いいバイクだね」はかなり無礼者だ。無視していると、
「珍しいバイクだ。はじめて見た」と続いた。確かにPS250は、あまり見かけないバイクだと思う。不人気車だから生産中止になっちまった。しかし、個人的には愛して止まない私の大切なバイクなのだ。なにか珍しいものでも見たと言う反応は止めていただきたい。だいたい本当にバイクが好きで、日頃から興味があれば、PS250ぐらいは知っていても不思議じゃない。「このバイク、以前から気になっていたんですよ。お話聞かせていただけますか」と話しかけられたら、こちらの気持ちも変わっていただろう。それに、そんなこと話かけられても、答えのしようがない。またまた、完全に無視していたら、
「それ、ホンダの250だろ」と言う。そんなことバイクの横に大きく書いてある。「HONDA PS250」。書いてある通りを言われても、またまた答えようがない。
「そんなこと書いてあるだろう」とイライラしながら答えを返した。すると、
「なんだ、世間話もしたくないのか」と言う。何故、見ず知らずのオッサンに世間話を強要されなきゃいけないのか。こちらは雨が降る前にカバーを被せたいと一生懸命になっているのだ。世間話をするタイミングではない。それに、本来はバイクに何の興味もないくせに、思いつきで話しかけてくる相手をいちいち対応していると、サービスエリアでの体験のようにろくなことにはならないのだ。
「したくないんだよ」とかなり声を荒げて言ってしまった。
「そうか、(表札でも見たのか)植野のおじさんは、世間話もできないのか」と言う。これにはホトホト呆れた。なんという男だ。自分の思い通りにならないと、人の悪口に転ずる。全くもって許せない、非常識な、無礼者である。身なりから言って、それにシェパードみたいな犬を連れて散歩しているくらいだから、まあまあの富裕層だと思う。どこかの会社のあるいはある程度の地位のある男かもしれない。それがこのていたらくである。情けない。まあ、富裕層だからといって、まあまあの地位があるからといって、人格者とは限らない。いい人ばかりとは限らない。逆にそうした層に嫌な奴は、実は多いいのだ。

渋滞の高速道路で、路側帯を走っていく奴は、たいてい中年のベンツオヤジだ。合流地点で道を譲らないのも、高級車に乗った偉そうなオヤジが多い。この輩は、自分が偉いと思い込んでしまっている。特別だと誤解している。まあ、会社や役所では役員であったり、高いポジションであったりすれば、その組織の中では特別な扱いを受けているだろう。周りがペコペコし、なんでもハイハイと聞いてくれれば、誰でもが自分に対して、いつでもそうした態度なのだと思い込むのは無理もない。でもはっきり言っておく。本当は、あなたが偉いのではなく、あなたのポジションが偉いのだ。そのポジションが通用しない世界では、ただのオッサンなのだ。偉くもなんともない。威張っても通用しないのだ。だいたい人間的に偉い人など、世界に何人もいない。ブッシュだって、プーチンだって人間的に偉いかどうかは疑わしい。本当に偉い人とは、全人格的に100%犠牲的精神に溢れ、生涯を自分以外の人のために尽くす人だ。だから、会社のポジションぐらいを嵩に着て、全く無関係な相手までにも威張り散らす人間など偉くないばかりか、虫けら以下なのだ。しかし実際は、世間にはこうしたくだらない人種がうじゃうじゃいる。どこででも、誰にでも威張り散らし、我儘を押し通そうとする奴ら。政治家にもいる。会社にもいる。役人にもいる。「偉い」を完全に誤解している。こういう人間達が、いまの日本を本当に悪くしている気がする。政治家たちが特に悪い。日本全体を悪くしているからだ。献身的で、犠牲的な精神を持った政治家が一人でもいるだろうか。みんな私利私欲を貪っているだけだ。「権力」を得ることに翻弄され、それにしがみついているだけだ。「国民の暮らしを最優先に考える」などというスローガンは、政治家にとっては言うのも恥ずかしいほど当たり前のことだ。ほかに何を考えるというのだ。こんなことをスローガンにするのは、本当は国民のことなど考えていない証拠のような気がする。自分を自分で「偉い」地位に押し上げ、国民全体を見下げている発想だ。

話がえらい方向に行ってしまった。
ともかく、その日はその嫌なオヤジに会ったおかげで、それから一日不愉快になってしまった。確かに私のとった行動も大人気ないと認める。もっと素直に、当たり障りなく対応していれば、不愉快にもならずに済んだのかもしれない。しかし、私はそれができない性格なのだ。許せないものは、許せないのだ。自分が嫌われ者になっても、当たり障りなく、適当に対処することなど、私の生き方の中にはないのだ。いつも真剣。いつも本気なのだ。そうでなくては、バイクにも乗れない気がしている。逆にそうであるからこそ、バイクが好きなのだと思う。自分を自分で守り通す勇気こそが、バイクに乗り続けることだし、乗って旅する上で、安全を守り通せることなのだと思う。世間は、嫌なことが起こる。嫌な奴がいる。でもバイクがある限り、私は、私とバイクを完全に守り通すのだ。流されて生きるのでは、生きている意味がない。バイクはいつも私に、「強くあれ」と励ましてくれるのである。
<戻る>